「ゴドーを待ちながら」を観た後に。

2018年12月21日、
札幌文化芸術劇場 hitaru にて。

しばらく演劇は観に行っていなかったから、ひたすら新鮮だった。
小さい頃に行った気もするのだが、もはや記憶の彼方なので、
もう初めてという事でいいのかもしれない。

きっかけとしては伊藤計劃の「虐殺器官」の中で「ゴドーを待ちながら」について登場人物たちが話すシーンがあり、ずっと気になっていたから観にいってみた、という具合だ。

内容の感想の前に、印象的だったのは舞台の造り。
写真が上手く撮れていないけど、舞台が中央にあり、客席を分断する形になっている。
しかも舞台の形は不規則に湾曲していて、なんとも表現できない形なのがまたいい。(正方形であるとか、明確な定義がないという意味で)
その形がある種、境界を曖昧にし、客席を作品の世界と一体化させてくれる気さえする。

さて、肝心の内容について。
これまた中々に形容し難い。笑
喜劇なのか悲劇なのか。
ゴドーを待つ二人の掛け合いや暇つぶしの遊びは、時折メタ発言やしょうもない悪口の応酬、ちょっぴり下ネタ等で大いに笑いを誘うものが多い。
ただ、純粋なコメディーなのか?というとそうではなく、ひとしきり笑った後や一瞬の間に強烈な切なさや絶望感といった類のものが、急速に訪れるのだ。

おそらく、これは「ゴドーを待ちながら」という戯曲の魅力の一つであるのだろうと思う。
私は今回が初めての「ゴドー」で、比較するものを持たないために現時点ではイマイチ話に厚みを持たせられないのだが。
(今後もまた別の「ゴドー」に触れてみたいし、興味を派生させていきたい)

はたして、二人の待つ「ゴドー」とは何者なのだろうか?
作品の中で、それが明確に語られることはない。
Twitterの感想の中には「ゴドーとは人物ではなく、実は「死」で、あの二人は死を待っているのではないか」とか、自分たちにとっての救世主=神なのでは?というような「ゴドーは人物ではなく概念である」という系統の感想もあった。

私もこれに対しては「そうかもしれないなぁ」としっくり来るところがある。

結論としては、原作者のベケットが考える「ゴドー」はわからないが「ゴドーを待ちながら」は人によって解釈が違うかも、というところだ。
つまりは「◯◯を待ちながら」となり観る人が感じる…もとい求めるものが「ゴドー」の部分に当てはまるのでは?ということだ。

私の場合は何を待っているか?
あ、この文章を書いていたら地下鉄を乗り過ごしてしまった。
反対側のホームに行かなきゃいけないのか。面倒だなぁ。笑

いや、まあちょっと脱線したけども、何を待っているか。
死かなぁとも思ったけど、違うような気もする。
死にたいと思うことはあるけど、多分それは別の気持ちを一括りにそう表現してしまっているのであって、本心の因数分解みたいのが出来てないんでしょう。たぶん。(いきなり自己分析がはじまる)

このままいくと永遠に脱線しそうなので、そろそろまとめを。

・可笑しくも意外とかみ合ってない会話に「人間こんな感じかも」と思う
・ちょっと前のことを忘れたり、ずっと喋ったり、登場人物たちにADHDみを感じて
「あー、あるよねー」謎の共感をする(私だけだそれは)
・何が本当で、今見ているものは現実か?なんて感覚になっても時間は過ぎるし、
月は出るし、明日は来る
・作品の世界に入るつもりで観ていたけど、気がつくと自己投影して考えだす不思議さ
・人生とはなにか、を台詞の一つ一つを聞くたびに問いかけられている気がする

明るいようで、暗いようで、先には何があるのか。
この不思議な感覚の沼に浸かってみたい方は、機会があったらぜひ観に行ってみてください。

私にとって、あなたにとっての「ゴドー」は、なんでしょうか?

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ABOUTこの記事をかいた人

ゲームと甘いものがガソリンの20代後半。 北海道在住。最近ADHDと診断される。 落ち込んだり立ち上がったり忙しいので、 雑草みたいな奴だと自分で思っている。